ファッションがこわい

 

世の中はこわいもので溢れていて、このブログでもすでに歯医者がこわい野球がこわいとぶつぶつ言った記憶がありますが、あらゆる恐ろしいものことの中でもとりわけ格別の恐怖を感じるものとして「ファッション」がある。

 

というかそもそも、怖い怖くない以前に、ファッション、何もわからない。


着ているか着ていないかくらいはギリギリ判別できるが、何がおしゃれで何がおしゃれでないのか、あまりにわからない。P≠NP予想、宇宙に果てはあるのか、そういったものに並び立つ難題のようにすら思える。WEARは火星人のSNSですと言われたら納得する。

なにもパリコレのような先鋭化したシーンの突端の部分を指して理解できないと言っている訳ではなくて、日常の中で、どういう時にどういう服を着るか、とか、どういう組み合わせがよいのか、とか、そういうかなり基本的なことがわからない。

 

関心を持ってファッションに関する知識を獲得してこなかったおまえが全面的に悪い、と言われてしまえばそれまでなのですが、そこはどうにか一度ぐっと堪えて、非おしゃれ民による大いなる責任転嫁と情けない恨み節を聞いていただけないでしょうか。

 

まず言わせてもらいたいのだけど、義務教育に「ファッション」なんて教科はなかった。国数英社理ファ、みたいな世界だったならもっと違った現在があったはずだ。サプリメントでもいい。マルチビタミンタブレットみたいに、一日一粒飲めばあなたのおしゃれさは最低限担保されます、というふうなサプリメントがドラッグストアで売られていれば諸手を挙げて買う。

 

しかしながら現実は辛く厳しいもので、そんな教科もサプリメントも、この世のどこにも存在しない。存在しない世界で、非おしゃれ民はどう生きるか。君たちはどう生きるか。 

 

外出するときのことを考えてみる。
ほんとはぜんぜん服なんか着たくないのだけど、裸で外に出てはいけないと法律によって決まっているし、まあ冬場は寒いし、こればっかりは仕方ない、と純然たる遵法精神からしぶしぶ持っている服をあてずっぽうに身に着け、靴なんかも履かないと足の裏が痛いので不服ながらも履き、街に繰り出す。


すれ違う人はみんな、シャツ、ズボン、ワンピース、スカート、帽子、靴、時計、各人の美意識によりなされた小さな選択を繰り返した結果の大きな選択の塊として歩いている。この人たちは自分で服を選んで適切なおしゃれをしている。偉業だ。すごいことだ。みなさんに賞状と、それからトロフィーをあげます。

翻って自分の恰好に目を落とす。靴がぼろぼろだ。着ているパーカーについている毛玉がやけに気になって、身を縮めて道路の端を歩いたりする。

もちろん外出するたび毎度毎度こういうみじめな気持ちになるわけではないけれど、ファッションに対する苦手意識、気おくれが人生そのものにうっすらと暗い影を落としているのは紛れもない事実だ。

 

そしてそういう状況なので、服屋が本当に本当に怖くてたまらない。深夜の廃病院より怖い。なにしろファッションのことが皆目わからない状態で、ファッションに満ち、ファッションが支配する空間に立っているわけだから、心細さに身が竦むのも当然と言えば当然ではある。

 

店員さんから絶対に話しかけられたくない。何をお探しですか、などと聞かれても困ってしまう。わかりません。ぼくは何を探しているんでしょうか。正直にそう言って全部おしまいにしてその場で灰になってしまいたいけれど、そんなことをできるはずもないので、いえ、ちょっと見てるだけです、と卑屈な笑みでぼそぼそとなんとか答えて、小さく会釈をしてそそくさとその場を離れることしかできない。無力だ。服屋の店員さんに対してぼくなんかができることはない。

 

店員さんへの恐れから、今では服屋を訪れた際は棚を使って店員さんの射程に入らないように立ち回るようになった。昔流行ったホラーゲーム、何ていう名前だったかな、ああそう青鬼、青鬼をプレイしているようなもので、神経がみるみる磨り減っていく。かれらはプロであり、敵ではなくむしろ味方で、質問すれば優しくいろいろなことを教えてくれるというのは頭では理解しているのだけど、それでもやっぱり怖い。

 

服屋にいるあいだじゅうずっと、落ち着かなさと焦燥感が絶え間なく内臓のあたりをじわじわと蝕んで、うまく息ができない。酸素薄くないですかここ。店内にはおしゃれな音楽がかかっている。おしゃれな音楽をかけないでください。どうしてかわからないけど、責められているような気分になるので。

 

そうして店内で迷子の子どものように途方に暮れているうちに、自分のなかにある"一日に許容できるおしゃれ摂取量の限界値"みたいなものの水位がぐんぐんと上昇していくのがわかる。助けてくれ。私の戦場はここじゃない。しまむらのセーターを着たほむらちゃんが脳内でそう言っている。今すぐここを出て、ブックオフとか、丸亀製麺でもなんでもいい、近くのおしゃれ濃度が低い施設に駆け込まなくてはならない。ああだめだ、決壊する。

 

服屋に一時間居るか都心の駅の汚い公衆トイレに一時間軟禁されるか選べ、と言われたらおそらく後者を選ぶ。それくらい服屋にまつわるいろんなことがとにかくいやだ。苦心してなんとか目星をつけたものを手に試着室をめざすあいだに感じる店員さんの視線がいやだ。試着いいですか、と声をかけるのがいやだ。試着室の中の大きな全身鏡がいやだ。試着するとき、さっきまで自分が着ていた服の、アイロンなんてかけていない皺の数々や毛玉、色の褪せ、布地の損耗を再確認させられるのがいやだ。


はたして自分はいま身の丈に合ったアイテムを選べているんだろうか、という疑念が常に背後に付きまとう。試着してみて、この服ぼくにぴったりだ、と思ったことが産まれてこのかた一度も、誇張でなく一度もない。

 

なんとなくそれっぽいものを、妥協とあきらめの混ざった当て推量でどうにかカゴに数点入れ、首をかしげながらレジに運ぶのが常だ。そもそも服屋に入ったはいいものの、次第に何もかもがわからなくなっていき、最終的に目をぐるぐるさせながら疲弊しきって手ぶらで何も得ず敗走、まさに敗走というほかない、をすることもままある。


他のお客さんはよどみなく店内を移動し、にこやかに店員さんとコミュニケーションを取り、確信をもってアイテムを手に取り、試着室へと優雅に消え、やがて戦利品の袋を携えて軽やかな足取りで店を後にする。自分が好きな服、自分が着たい服。今年の流行。かれらは正解を知っている風に見える。本当にみんな、どうやって適切に自分に似合う服を選んでいるんだろう。なぜこの世は洋服を選ぶに際して、リズムゲームのようにPerfect!とかBad……とかいうふうに判定がポップアップされる仕様でないのか。次回のアップデートではぜひ実装していただきたいものです。

 

そもそもぼくの欲求はおしゃれに見られたい、という以前の段階にあり、社会に溶け込みたい、ふつうの人認定をしてほしいというところにある。服装でのふるいから落とされたくない、と言い換えてもいい。ファッションは明らかに一種の選別装置として機能していて、曖昧な不可視の線が人々をグループに分けて、自分にはわからない基準で「ある」「ない」のジャッジが行われている。こんな恐ろしいことがあっていいのか。

 

デートの相手がこんな服を着てきてその場で帰ったんだよね、というようなエピソードや、絶対NG!痛いファッション10選!というようなまとめ記事を見聞きするたびに背筋に冷たいものが走る。ださい格好をしているだけでなぜそんなに悪しざまに言われなくてはいけないのか。着てるんだしいいだろ。おしゃれだね、と言われたいなどと贅沢なことは言わない。おっ今日も服着てるね、そういうあなたもかなり着てますね、これくらいのハードルの低さであったなら。

 

おしゃれな衣類を身に着けてアスファルトで固めた大地を今日も元気に闊歩しているホモサピエンスたち。裸であれば毛の少ない大型の猿にすぎないくせに、ちくしょうおしゃれですね、そのDOPEなジャケットとかILLな靴はどこで手に入れたんですか、こっそり教えてくれませんか。もういっそ何も身に着けず生まれたままの姿で街に飛び出して世間に一石を投じ、そのまま檻の向こうに消えてしまおうか、と思ってしまう瞬間もあるけれど、それはそれとして、社会に適合するためには服を着なければならない。

 

「メンズ ファッション 無難」「ユニクロ おすすめ」といった小市民的なせせこましいワードを検索ボックスに打ち込んで今日もなんとか生き抜いていく。

綿花畑に火を放って逮捕された人間のニュースをもし見かけたら、それは僕かもしれませんので、なにとぞ。

(おわり)