ファッションがこわい
世の中はこわいもので溢れていて、このブログでもすでに歯医者がこわい野球がこわいとぶつぶつ言った記憶がありますが、あらゆる恐ろしいものことの中でもとりわけ格別の恐怖を感じるものとして「ファッション」がある。
というかそもそも、怖い怖くない以前に、ファッション、何もわからない。
着ているか着ていないかくらいはギリギリ判別できるが、何がおしゃれで何がおしゃれでないのか、あまりにわからない。P≠NP予想、宇宙に果てはあるのか、そういったものに並び立つ難題のようにすら思える。WEARは火星人のSNSですと言われたら納得する。
なにもパリコレのような先鋭化したシーンの突端の部分を指して理解できないと言っている訳ではなくて、日常の中で、どういう時にどういう服を着るか、とか、どういう組み合わせがよいのか、とか、そういうかなり基本的なことがわからない。
関心を持ってファッションに関する知識を獲得してこなかったおまえが全面的に悪い、と言われてしまえばそれまでなのですが、そこはどうにか一度ぐっと堪えて、非おしゃれ民による大いなる責任転嫁と情けない恨み節を聞いていただけないでしょうか。
まず言わせてもらいたいのだけど、義務教育に「ファッション」なんて教科はなかった。国数英社理ファ、みたいな世界だったならもっと違った現在があったはずだ。サプリメントでもいい。マルチビタミンのタブレットみたいに、一日一粒飲めばあなたのおしゃれさは最低限担保されます、というふうなサプリメントがドラッグストアで売られていれば諸手を挙げて買う。
しかしながら現実は辛く厳しいもので、そんな教科もサプリメントも、この世のどこにも存在しない。存在しない世界で、非おしゃれ民はどう生きるか。君たちはどう生きるか。
外出するときのことを考えてみる。
ほんとはぜんぜん服なんか着たくないのだけど、裸で外に出てはいけないと法律によって決まっているし、まあ冬場は寒いし、こればっかりは仕方ない、と純然たる遵法精神からしぶしぶ持っている服をあてずっぽうに身に着け、靴なんかも履かないと足の裏が痛いので不服ながらも履き、街に繰り出す。
すれ違う人はみんな、シャツ、ズボン、ワンピース、スカート、帽子、靴、時計、各人の美意識によりなされた小さな選択を繰り返した結果の大きな選択の塊として歩いている。この人たちは自分で服を選んで適切なおしゃれをしている。偉業だ。すごいことだ。みなさんに賞状と、それからトロフィーをあげます。
翻って自分の恰好に目を落とす。靴がぼろぼろだ。着ているパーカーについている毛玉がやけに気になって、身を縮めて道路の端を歩いたりする。
もちろん外出するたび毎度毎度こういうみじめな気持ちになるわけではないけれど、ファッションに対する苦手意識、気おくれが人生そのものにうっすらと暗い影を落としているのは紛れもない事実だ。
そしてそういう状況なので、服屋が本当に本当に怖くてたまらない。深夜の廃病院より怖い。なにしろファッションのことが皆目わからない状態で、ファッションに満ち、ファッションが支配する空間に立っているわけだから、心細さに身が竦むのも当然と言えば当然ではある。
店員さんから絶対に話しかけられたくない。何をお探しですか、などと聞かれても困ってしまう。わかりません。ぼくは何を探しているんでしょうか。正直にそう言って全部おしまいにしてその場で灰になってしまいたいけれど、そんなことをできるはずもないので、いえ、ちょっと見てるだけです、と卑屈な笑みでぼそぼそとなんとか答えて、小さく会釈をしてそそくさとその場を離れることしかできない。無力だ。服屋の店員さんに対してぼくなんかができることはない。
店員さんへの恐れから、今では服屋を訪れた際は棚を使って店員さんの射程に入らないように立ち回るようになった。昔流行ったホラーゲーム、何ていう名前だったかな、ああそう青鬼、青鬼をプレイしているようなもので、神経がみるみる磨り減っていく。かれらはプロであり、敵ではなくむしろ味方で、質問すれば優しくいろいろなことを教えてくれるというのは頭では理解しているのだけど、それでもやっぱり怖い。
服屋にいるあいだじゅうずっと、落ち着かなさと焦燥感が絶え間なく内臓のあたりをじわじわと蝕んで、うまく息ができない。酸素薄くないですかここ。店内にはおしゃれな音楽がかかっている。おしゃれな音楽をかけないでください。どうしてかわからないけど、責められているような気分になるので。
そうして店内で迷子の子どものように途方に暮れているうちに、自分のなかにある"一日に許容できるおしゃれ摂取量の限界値"みたいなものの水位がぐんぐんと上昇していくのがわかる。助けてくれ。私の戦場はここじゃない。しまむらのセーターを着たほむらちゃんが脳内でそう言っている。今すぐここを出て、ブックオフとか、丸亀製麺でもなんでもいい、近くのおしゃれ濃度が低い施設に駆け込まなくてはならない。ああだめだ、決壊する。
服屋に一時間居るか都心の駅の汚い公衆トイレに一時間軟禁されるか選べ、と言われたらおそらく後者を選ぶ。それくらい服屋にまつわるいろんなことがとにかくいやだ。苦心してなんとか目星をつけたものを手に試着室をめざすあいだに感じる店員さんの視線がいやだ。試着いいですか、と声をかけるのがいやだ。試着室の中の大きな全身鏡がいやだ。試着するとき、さっきまで自分が着ていた服の、アイロンなんてかけていない皺の数々や毛玉、色の褪せ、布地の損耗を再確認させられるのがいやだ。
はたして自分はいま身の丈に合ったアイテムを選べているんだろうか、という疑念が常に背後に付きまとう。試着してみて、この服ぼくにぴったりだ、と思ったことが産まれてこのかた一度も、誇張でなく一度もない。
なんとなくそれっぽいものを、妥協とあきらめの混ざった当て推量でどうにかカゴに数点入れ、首をかしげながらレジに運ぶのが常だ。そもそも服屋に入ったはいいものの、次第に何もかもがわからなくなっていき、最終的に目をぐるぐるさせながら疲弊しきって手ぶらで何も得ず敗走、まさに敗走というほかない、をすることもままある。
他のお客さんはよどみなく店内を移動し、にこやかに店員さんとコミュニケーションを取り、確信をもってアイテムを手に取り、試着室へと優雅に消え、やがて戦利品の袋を携えて軽やかな足取りで店を後にする。自分が好きな服、自分が着たい服。今年の流行。かれらは正解を知っている風に見える。本当にみんな、どうやって適切に自分に似合う服を選んでいるんだろう。なぜこの世は洋服を選ぶに際して、リズムゲームのようにPerfect!とかBad……とかいうふうに判定がポップアップされる仕様でないのか。次回のアップデートではぜひ実装していただきたいものです。
そもそもぼくの欲求はおしゃれに見られたい、という以前の段階にあり、社会に溶け込みたい、ふつうの人認定をしてほしいというところにある。服装でのふるいから落とされたくない、と言い換えてもいい。ファッションは明らかに一種の選別装置として機能していて、曖昧な不可視の線が人々をグループに分けて、自分にはわからない基準で「ある」「ない」のジャッジが行われている。こんな恐ろしいことがあっていいのか。
デートの相手がこんな服を着てきてその場で帰ったんだよね、というようなエピソードや、絶対NG!痛いファッション10選!というようなまとめ記事を見聞きするたびに背筋に冷たいものが走る。ださい格好をしているだけでなぜそんなに悪しざまに言われなくてはいけないのか。着てるんだしいいだろ。おしゃれだね、と言われたいなどと贅沢なことは言わない。おっ今日も服着てるね、そういうあなたもかなり着てますね、これくらいのハードルの低さであったなら。
おしゃれな衣類を身に着けてアスファルトで固めた大地を今日も元気に闊歩しているホモサピエンスたち。裸であれば毛の少ない大型の猿にすぎないくせに、ちくしょうおしゃれですね、そのDOPEなジャケットとかILLな靴はどこで手に入れたんですか、こっそり教えてくれませんか。もういっそ何も身に着けず生まれたままの姿で街に飛び出して世間に一石を投じ、そのまま檻の向こうに消えてしまおうか、と思ってしまう瞬間もあるけれど、それはそれとして、社会に適合するためには服を着なければならない。
「メンズ ファッション 無難」「ユニクロ おすすめ」といった小市民的なせせこましいワードを検索ボックスに打ち込んで今日もなんとか生き抜いていく。
綿花畑に火を放って逮捕された人間のニュースをもし見かけたら、それは僕かもしれませんので、なにとぞ。
(おわり)
野球がこわい
野球、お好きでしょうか。
野球といえば、サッカーと並んで球技の花形で、甲子園は夏の間の一大トピック、ナイターは世のお父さんたちの一大娯楽、という貫禄の大人気スポーツですが、ぼくはこの野球というものが好きか嫌いでいえばただただ恐ろしく、これまで野球というものにまったく心を開けないままここまできた。
うすく立ち込める霧のような苦手意識の大部分は野球にかんする思い出にろくなものがない、ということから来ていると思う。これは完全に巡り合わせというか、個人的なタイミングの問題であって、野球そのものに瑕疵があるわけではないということは強調しておきます。
さて、ひとつ今でもはっきり思い出せる野球のことが苦手になったきっかけというのがあって、話は高校時代、だいたい今から5億年前、先カンブリア時代ですね、にさかのぼる。
その年、ぼくが通っていた高校の野球部はかなりがんばっていて、甲子園の地区予選を突破し、順調に勝ち進んでいた。勝ち進んでしまっていた。そしてその勢いのまま、学年総出で遠くのスタジアムまで応援に行くこととなった。
試合当日は雲一つない快晴だった。スタジアムには屋根がない。夏真っ盛り、遮蔽物がない場所で浴びる日差しというのはもはやスリップダメージだ。毒の沼地を歩かされている状態となんら変わりがない。
照りつける日差しに体力を削られながら立ち尽くす。汗が目に染みる。
なぜこの建物には屋根がないのだろう、屋根がない建物って劇的ビフォーアフターでも見たことないぞ、もしかしてみなさん屋根というものをご存じないのですか?人類史に残る偉大な発明にして基本的人権のひとつにも数えられるあの屋根を?
引率の教師は熱中症がいかに怖いか熱弁し、九官鳥のように水を飲め帽子を外すなと声高に繰り返しているのだけど、先生、そもそも炎天下の野外に生徒を放置しないでください。児童虐待ですよこれは。
観客よりも選手の方が辛いという意見はたしかにごもっともではあるのだが、屋根をつければ誰も苦しまなくて済むのではないか。クーラーの効いた部屋でパワフルプロ野球で決着を付けるのではだめなのか。監督同士が直接殴り合うとかでもいい。
そんななか灼熱の観客席で汗だくになりながらJ-POPを奏でていた吹奏楽部のみなさんたちには本当に頭が下がる。シンバルとかもう目玉焼き用のフライパンみたいになってしまっているだろうに、吹部もコンクールとかあるし大変じゃないのか、別に録音したの流せばいいだろ、と元も子もなく品もない悪態が喉まで出かかるのをなけなしの理性と社会性で必死に押し戻す。今思えば口に出さなくて本当によかった。思春期のあいだの不用意な発言というのは、たやすく迫害の端緒となりうる。吹奏楽部と野球部、文化部と運動部の双璧から顰蹙を買うのは文武両道の一形態と言えるのだろうか。
ひりひりする肌、乾いた喉、野球の応援って何をすればいいのか皆目わからなかったので必死に周囲の真似をした結果得た徒労感、それらを抱えたまま帰りのバスに乗り込んだぼくは、野球、なんかやだ、とぐったりして座席に沈んだ。思えばこの日の経験が、それまで深く意識していなかった野球に対する苦手意識の萌芽みたいなものに水と肥料を与えたのだと思う。
加えて、報道の中に見る野球が苦手、というのもある。特に甲子園関連のニュースはどうも好きになれない。猛暑の中苦しみながら戦う球児たちのハイライトを、クーラーの効いた部屋で7時台のニュースの中に流し見する自分、というグロテスクな構図。コロッセオで奴隷が猛獣と闘うのを喜々として見る古代ローマの観衆と何が違うのか?
たしかに、人が苦しんでんのエンタメっしょ笑、と言われてしまえばそれまでなのだが、バッテリーの絆に涙……!美人マネージャーの驚くべき献身とは……!みたいなことをやって感動の求肥でくるんでお茶の間にお茶請けとしてお出ししているわけでしょう。もうこんなものはポルノだポルノ、若人の涙と汗で伸ばした絵の具で描いた春画ですよ。明らかにこういうVTRが存在すべき場所は地上波ではなくFANZAだろうが。聞いてるのかBPO。
そもそも野球のルールすらあまりよく分かっていない。ボールを投げて、バットでぶっ叩いて、走って、デカいはんぺんみたいなのに滑り込んで、みたいなことをするのだろうというぼんやりとしたビジョンはあるものの、細部は依然として闇に包まれている。あのスライディングするやつ、どう考えてもユニフォームの洗濯が面倒くさすぎて発狂すると思うのですが、そこのところどうなんでしょう。
思い返してみれば、野球、した記憶がそもそもなかった。人生で一度も野球を実体験として行ったことがないのでルールも知らないというのは当然ではある。
野球に限らず、球技っておおむねだいたいむずかしく、苦手意識がどうしてもある。これはぼくがインドアのオタクで、日ごろする運動といえばタイピング程度という日陰者だからというところも大いに関係しているけれども、とにかくジョギングとかであれば、自分の体をどう動かすかを考慮するだけで済むのでまだ飲み込めるのだが、球技ですよ。球。どこにどう力を加えたらどうなるかいまいちわからない物体がいきなり出しゃばってきてびっくりする。誰ですかあなたは。急に登場しないでほしい。アポを取れ。
自分の体の操作もおぼつかないぼくのような人間は、いざ球技をやってみろと言われると、いやいやわからんわからん変数が多い、ボール何処飛んでいくねん他の人何処おんねん俺何すればええねん、と謎の関西弁で混乱しながら泡を吹いてバグって地面にめり込むくらいしかできることがない。
ああ、そうそう、そしてなにより、野球のボール、小さくないですか?小さすぎる。絶対に小さい。手のひらに収まるサイズの球体たったひとつに対して、日々研鑽を欠かさない屈強な選手たちが数十人、そしてあの広大なスタジアム。どう考えても釣り合いが取れていない。アスリートの集団があんなちっぽけな球ひとつに一喜一憂、右往左往、というさまを見るにつけ、なんだかたちの悪い冗談のように思えて仕方がない。
150キロとかのスピードでボールをビュンビュン飛ばしてるのもまったく意味が分からない。そもそも、人に向かってそんな速度で物体を投げてはいけない。たいへん危ないし無礼だ。やめたほうがいい。法治国家だぞここは。同じ感覚のまま往来で石を投げたら逮捕されますよ。
門外漢からするとジョークのようすら思えるボールの小ささや、人に向かってボールを投げつけるという行為、そういったことを考えるにつけ、野球というものの実在性、真剣性に猜疑心が生じてくる。これって、ほんとに存在しているスポーツなんですか?民明書房のなかにしかないフィクションではなく?
もしそうだったとしたら。
いつかもし自分が野球に心を開いたとして、ルールをしっかり覚えてスタジアムへと観戦に趣き、いままで食わず嫌いしてましたけど野球っていいものですね、と表明したとする。
その瞬間、周囲が静止し、球場ががらがらと音を立てて崩れ、ドッキリ大成功!と書かれた札を持ったリポーターが、間抜け面で固まっているぼくににこやかに駆け寄ってくるのではないか。
いままでの野球にかんするすべては盛大で悪趣味な前振りで、滑稽に踊らされるぼくの一部始終をお茶の間の笑いものにするために仕組まれた巨大な陰謀だったりするのではないか。
野球にはそういう怖さがある。そういうわけでぼくはずっと野球というものにまったく心を開けず、宙ぶらりんの状態でただただ恐怖心と苦手意識を募らせ続けている。助けてください。
(おわり)
日記の前駆体
ブログやるぞ~と鼻息荒めに初めてからネグレクトに次ぐネグレクト、教科書に載せても恥ずかしくない三日坊主でここまできてしまった。最終更新一か月以上前ですね。お久しぶりです。
ということで、最近の日記未満のまとめです(575)
twitterでやれば?というのは仰る通りではあるのですが、ブログもたまに虫干ししないといけないので、すみません……
▢ありがとうへの胸焼け
先日、トイレットペーパーを使い終わり、残った芯を捨てようと手に取ったところ、そこにびっしりと書かれた「まいどありがとうございます」の文字たちを見つけた。
…………?おれはただ、この紙で尻を拭いただけだが?
となろう系主人公のようなことを考えたあとで、これは(自分にとって)無くてもいいタイプの感謝だな、というふうなことをぼんやり思う。なくてもよい感謝に胸焼けを感じる瞬間、ありませんか?
卑近な例でいえば、コンビニのトイレで「いつもきれいにご利用いただきありがとうございます」、という張り紙を見るたびにアッ!善意のオブラートにくるんでおれをたくみに操ろうとしているな!騙されないぞ!と身体を固くしてしまう、みたいな。
以前「このお菓子はありがとうを100万回聞かせて作っています」とパッケージの裏に書いてあるお菓子を見かけたことがありますが、ここまでいくともう純然たる狂気だなと思った。今調べたら幼稚園児がありがとうと言っている声を録音して製造ラインで流し、2秒に1回のペースで感謝を叩き込んでいるそうです。ディストピア、隣町くらいの位置に来てたんすね
極論、小売店レベルのありがとうございましたは別になくてもいいと思う。個人的にはですけど。
▢ドーナツの外側としてあまねく命
あらゆる人間はドーナツの外側として生まれドーナツの外側として死ぬんだよな、というようなことを考えたが、けばけばしくあかるいミスタードーナツの店内で口にするには不釣り合いなことのように思われたので無言でオールドファッションをもそもそと噛み、おかわり無料のカフェオレで胃に流した。
ていうかオールドファッションまじでうまいですよね、砂漠で渡されたらキレますが……
▢厨房でパワハラを
ティファニーで朝食をみたいに言うな
麻婆豆腐・麻婆茄子が好きでよく作るのですが、豆板醬花椒醤油味噌砂糖ごま油鶏ガラお酢にんにく!オラ!くたばれ!という調理工程で、これ調味料で食材をめちゃくちゃにするのが好きなだけだなということに気付いてしまった。本質的にはパワハラと同じですねこれ。自分の隠れた暴力性に中華を通して気付くプロセスかなり嫌だな。
▢ニホンゴ・オブ・ザ・デッド
最近二次創作の小説を細々と書いているのですが、一行書くごとに日本語めちゃめちゃ難しい、助けてくださいと天を仰いでいます。
いちおう日本語はネイティブなはずなのですが、書き言葉ってウナギの掴み取りしてんのかと思うくらい指の隙間からぬるりと逃げて行ってしまいますね。
改めて思い返せば自信もって使える言語、喃語しかないな。バブー!さようなら。
▢いまさら食べるラー油
食べるラー油を買いました。ブームになってたの何年前だっけ、と思って調べると(ぼくは反射的に何もかも検索してしまうGoogleの飼い犬なので)、おおよそ10年前だそうです。時の流れヤバすぎる、このペースでいくとまばたきしてるあいだに棺ですね。10年越しにいまさら、という感はなくはないのですが、これが万能でおいしい。何に乗せてもだいたいうまく、協調性がすごい。きみ学生時代なんかチームスポーツとかやってた?
ぼくはにんにくが好きで何にでもにんにくを入れたがるタイプの人間なので、フライドガーリックが贅沢にたっぷり入っているのもうれしく、これは流行ったのも頷ける。赤くて禍々しく、地獄のメタファーっぽいビジュアルも気に入っていて、豆腐にかけて地獄on豆腐、そうめんにかけてそうめんin the hell、蒸し鶏にかけてニワトリ地獄に落ちる、といった感じにして楽しんでいます。おすすめ。
▢カルディ、きみの狭さを愛していたが
カルディはかなり最愛に近い存在で、海外のよくわかんない調味料とかジンジャーが鳩尾を殴ってくるような味のクッキーとか紅茶とかコーヒーとかが所狭しと並んでいて愛愛愛愛おさるさんだよ、というのが前提としてある上での話になるのですが、最寄りのカルディがいつのまにか改装していた。通路は広く通りやすくなり、商品の陳列も若干すっきりとした気がする。
寂しい。やめてください。わたしは君の狭さや猥雑さも含めて愛していたんだ。
冗談ではなく通路の狭さはカルディの気に入っていた点のひとつで、他のお客さんとすれ違う際、カゴを胸の前に沿わせ、狭くってたいへんですよねえ、というふうな顔でお互いに軽く会釈しながらそろりそろりとすれ違うのもカルディの華、と思っていたのですが、それが改装により失われてしまい悲しい。
万が一西松屋の通路が狭くなったとしたらきっと同じように悲しむ自信がある。めんどくさい客だという自覚はあります。
▢知ってる人が書いた文章が読みたい
知ってる人が書いた文章がとても読みたいので、インターネットで知り合った方々、ぜひブログとかツイートとかをさかんに行ってください。懇願です。
文体とか比喩の仕方とか、文字の開き方(ある単語を漢字で書くかひらがなで書くか)とか、文章って書いた人のパーソナリティを雄弁に語るものだと思うので。
言っててキモってなっちゃった。これ四捨五入したらセクハラですね。気を付けます。
ぼくの書いた文章を読んだ人にはぼくが精神がフレンチクルーラーのかたちをした無害なオタクだということが伝わっていてくれると嬉しいです。さようなら。
(おわり)
はいしゃこわい
歯医者、怖すぎる。嫌すぎるし無理すぎる。
天災とか死、戦争などとと同じカテゴリに属している。
まずもって生きたまま歯を削られる意味がわからない。
そんな猟奇的な施設がコンビニより多く林立しているのも意味がわからない。
こんな世界は狂っている。おれだけがこの狂った世界でまともなんだ、助けてくれ、という気持ちになる。
しかしながら虫歯、知覚過敏、親知らずが二本。あとなんか歯間ブラシやってたら歯が欠け、冷たいものを飲んでも熱いものを飲んでも甘いものを食べても歯がしみる。ヤンクミが担当してたクラスですか?というくらい口内に問題が山積みの状況で、しかし歯医者は恐ろしく、けれども口内が大変なことになっておりこのままではいつか必ず破滅がやってくる、でも本当に歯医者に行きたくない、予約の電話すらしたくない、という板挟みの状態の中で終わったToDoリストが生まれてしまった。
↑終わったToDoリスト
それにしても不便なホモ・サピエンスの体のなかでも歯であるとかその周りの歯茎であるとかは輪をかけて不便で、物理的に洗えない場所が存在する形状であるにも関わらずメンテナンスを怠るとやれ虫歯だの歯周病だの知覚過敏だのとやかましく、一度抜けたり欠けたりすると元に戻らないしまつであり、そのうえ乳歯と永久歯、たったふたつの残基でクリアするには平均80年の人生のステージはあまりに長い。そもそも永久歯、きさま、まったく永久じゃなくてかなりムカつく、イキるな、ととめどなく怨嗟が口から出てきて止まらない。止まらないが、まあ治療しないことにはどうしようもないので不承不承歯医者に通い始めた。
↑通院を始めて調子に乗りまくっている様子
進まない。全くもって治療が前に進まない。
保険制度の関係上、治療を完遂するまでには長い期間がかかるということは頭ではわかっていたもののここまでとは、と嘆息する。もちろん口腔疾患の万国博覧会を勝手に開催している自分に非があるのは重々承知のうえでなお言いたい。ゴールが見えない。
そもそも予約が二週間に一回しか取れず、その一回の通院で受けられる処置も限られている。歯のクリーニング(上の歯)、二週間経って歯のクリーニング(下の歯)、そのまた二週間後に歯磨き指導。虫歯の治療という核心にいっさい触れないまま2ヶ月近くが経過してしまった。
さすがにこれは、もうこのヨハネスブルグもかくやの口内が完全に治安を取り戻すのと自分の寿命が尽きるのとどっちが早いかくらいのペースではないか。
おれの口の中でディアゴスティーニするのをやめていただけないでしょうか。
ということで、歯科と名のついた猟奇的な施設に通う生活はしばらく続く。
あの映画観たいあのドラマ観たいと言い続けてやがて棺
Amazonプライム最高!(挨拶)
膨大な数の映画、ドラマ、アニメなどが見放題、地平線のかなた無限遠にエンタメが広がっていてめまいがするサービス、それがご存知Amazonプライムビデオです。ワンピースの正体はAmazonプライムビデオ、麦わら海賊団はもう解散してもらってかまいません
でもなんか選択肢多すぎて疲れる
でもなんか選択肢多すぎて疲れる
つかれる
これおもしろそ~あとで見よ~って気軽に突っ込んだあと一切触ってないコンテンツでウォッチリスト(お気に入り機能)がパンパンで最近はウォッチリスト開くと罪悪感さえ感じるようになってしまいました。
そもそも絶望的にドラマとか映画を観る適性がない。
YouTubeに脳を破壊されてしまったので、ドラマや映画見てるときも10秒スキップしたい!となってしまうんですよね。「この風景長写ししてるシーンダブルタップして飛ばせないのかな」などといった映画ファンの方からするとなんだこいつ?熱した鉄を飲ませたいですねと思われても仕方ないようなことを考えてしまう。いざ見始めても最初の20分くらいでいったん止めて飲み物飲んだりソシャゲのミッションやってそのまま映画は放置みたいなことをしたりして結局起承転結の起だけ消費するのを繰り返してしまっています。醜悪
でもなんかみんな結構映画観てるみたいなんですよね ずるくない???
市井の人々、あれ観た?あっ観ました、○○の演技がすごく良くて~やっぱりあの監督の演出は~みたいなのを軽々とやってのけている。それを尻目に僕はといえば、腰を据えてコンテンツを頭から尻まで消費してる人々をうらやみながらその場でググって瞬間的に得た浅~い知識でなんとか相槌を打ってその場をしのぐみたいなことをしているわけです。
逆ににわかオタクたちで集まって1ミリも見てないアベンジャーズについて想像でやいやい言う会とかしたい。なんか黒幕が地球半分消滅させたらしいよね~え~ひどくな~い?北半球?南半球?みたいなもう浅瀬も浅瀬、潮干狩りですか?みたいな会話を探り探りするみたいなのしたいですね。
もしくは脳にケーブル刺して電流ビビってしたら今までのゲームオブスローンズ全部見たことになりますよみたいなサービスがあってほしい
もう時計仕掛けのオレンジをリスペクトして椅子に縛り付けてもらって眼球固定状態で映画観るしかないかもしれない(この時計仕掛けのオレンジがうんぬんみたいな文も知ってるシーンがそこしかない状態でタイピングしています)
にわかオタクの人生は虚無 おわりです