野球がこわい

野球、お好きでしょうか。

野球といえば、サッカーと並んで球技の花形で、甲子園は夏の間の一大トピック、ナイターは世のお父さんたちの一大娯楽、という貫禄の大人気スポーツですが、ぼくはこの野球というものが好きか嫌いでいえばただただ恐ろしく、これまで野球というものにまったく心を開けないままここまできた。

うすく立ち込める霧のような苦手意識の大部分は野球にかんする思い出にろくなものがない、ということから来ていると思う。これは完全に巡り合わせというか、個人的なタイミングの問題であって、野球そのものに瑕疵があるわけではないということは強調しておきます。

 

さて、ひとつ今でもはっきり思い出せる野球のことが苦手になったきっかけというのがあって、話は高校時代、だいたい今から5億年前、先カンブリア時代ですね、にさかのぼる。
その年、ぼくが通っていた高校の野球部はかなりがんばっていて、甲子園の地区予選を突破し、順調に勝ち進んでいた。勝ち進んでしまっていた。そしてその勢いのまま、学年総出で遠くのスタジアムまで応援に行くこととなった。 

試合当日は雲一つない快晴だった。スタジアムには屋根がない。夏真っ盛り、遮蔽物がない場所で浴びる日差しというのはもはやスリップダメージだ。毒の沼地を歩かされている状態となんら変わりがない。

照りつける日差しに体力を削られながら立ち尽くす。汗が目に染みる。 

なぜこの建物には屋根がないのだろう、屋根がない建物って劇的ビフォーアフターでも見たことないぞ、もしかしてみなさん屋根というものをご存じないのですか?人類史に残る偉大な発明にして基本的人権のひとつにも数えられるあの屋根を? 

引率の教師は熱中症がいかに怖いか熱弁し、九官鳥のように水を飲め帽子を外すなと声高に繰り返しているのだけど、先生、そもそも炎天下の野外に生徒を放置しないでください。児童虐待ですよこれは。 

観客よりも選手の方が辛いという意見はたしかにごもっともではあるのだが、屋根をつければ誰も苦しまなくて済むのではないか。クーラーの効いた部屋でパワフルプロ野球で決着を付けるのではだめなのか。監督同士が直接殴り合うとかでもいい。

 そんななか灼熱の観客席で汗だくになりながらJ-POPを奏でていた吹奏楽部のみなさんたちには本当に頭が下がる。シンバルとかもう目玉焼き用のフライパンみたいになってしまっているだろうに、吹部もコンクールとかあるし大変じゃないのか、別に録音したの流せばいいだろ、と元も子もなく品もない悪態が喉まで出かかるのをなけなしの理性と社会性で必死に押し戻す。今思えば口に出さなくて本当によかった。思春期のあいだの不用意な発言というのは、たやすく迫害の端緒となりうる。吹奏楽部と野球部、文化部と運動部の双璧から顰蹙を買うのは文武両道の一形態と言えるのだろうか。

ひりひりする肌、乾いた喉、野球の応援って何をすればいいのか皆目わからなかったので必死に周囲の真似をした結果得た徒労感、それらを抱えたまま帰りのバスに乗り込んだぼくは、野球、なんかやだ、とぐったりして座席に沈んだ。思えばこの日の経験が、それまで深く意識していなかった野球に対する苦手意識の萌芽みたいなものに水と肥料を与えたのだと思う。

 

加えて、報道の中に見る野球が苦手、というのもある。特に甲子園関連のニュースはどうも好きになれない。猛暑の中苦しみながら戦う球児たちのハイライトを、クーラーの効いた部屋で7時台のニュースの中に流し見する自分、というグロテスクな構図。コロッセオで奴隷が猛獣と闘うのを喜々として見る古代ローマの観衆と何が違うのか?

たしかに、人が苦しんでんのエンタメっしょ笑、と言われてしまえばそれまでなのだが、バッテリーの絆に涙……!美人マネージャーの驚くべき献身とは……!みたいなことをやって感動の求肥でくるんでお茶の間にお茶請けとしてお出ししているわけでしょう。もうこんなものはポルノだポルノ、若人の涙と汗で伸ばした絵の具で描いた春画ですよ。明らかにこういうVTRが存在すべき場所は地上波ではなくFANZAだろうが。聞いてるのかBPO

 

そもそも野球のルールすらあまりよく分かっていない。ボールを投げて、バットでぶっ叩いて、走って、デカいはんぺんみたいなのに滑り込んで、みたいなことをするのだろうというぼんやりとしたビジョンはあるものの、細部は依然として闇に包まれている。あのスライディングするやつ、どう考えてもユニフォームの洗濯が面倒くさすぎて発狂すると思うのですが、そこのところどうなんでしょう。

思い返してみれば、野球、した記憶がそもそもなかった。人生で一度も野球を実体験として行ったことがないのでルールも知らないというのは当然ではある。 

野球に限らず、球技っておおむねだいたいむずかしく、苦手意識がどうしてもある。これはぼくがインドアのオタクで、日ごろする運動といえばタイピング程度という日陰者だからというところも大いに関係しているけれども、とにかくジョギングとかであれば、自分の体をどう動かすかを考慮するだけで済むのでまだ飲み込めるのだが、球技ですよ。球。どこにどう力を加えたらどうなるかいまいちわからない物体がいきなり出しゃばってきてびっくりする。誰ですかあなたは。急に登場しないでほしい。アポを取れ。

自分の体の操作もおぼつかないぼくのような人間は、いざ球技をやってみろと言われると、いやいやわからんわからん変数が多い、ボール何処飛んでいくねん他の人何処おんねん俺何すればええねん、と謎の関西弁で混乱しながら泡を吹いてバグって地面にめり込むくらいしかできることがない。

 

ああ、そうそう、そしてなにより、野球のボール、小さくないですか?小さすぎる。絶対に小さい。手のひらに収まるサイズの球体たったひとつに対して、日々研鑽を欠かさない屈強な選手たちが数十人、そしてあの広大なスタジアム。どう考えても釣り合いが取れていない。アスリートの集団があんなちっぽけな球ひとつに一喜一憂、右往左往、というさまを見るにつけ、なんだかたちの悪い冗談のように思えて仕方がない。

150キロとかのスピードでボールをビュンビュン飛ばしてるのもまったく意味が分からない。そもそも、人に向かってそんな速度で物体を投げてはいけない。たいへん危ないし無礼だ。やめたほうがいい。法治国家だぞここは。同じ感覚のまま往来で石を投げたら逮捕されますよ。 

門外漢からするとジョークのようすら思えるボールの小ささや、人に向かってボールを投げつけるという行為、そういったことを考えるにつけ、野球というものの実在性、真剣性に猜疑心が生じてくる。これって、ほんとに存在しているスポーツなんですか?民明書房のなかにしかないフィクションではなく?

 

もしそうだったとしたら。 

いつかもし自分が野球に心を開いたとして、ルールをしっかり覚えてスタジアムへと観戦に趣き、いままで食わず嫌いしてましたけど野球っていいものですね、と表明したとする。

その瞬間、周囲が静止し、球場ががらがらと音を立てて崩れ、ドッキリ大成功!と書かれた札を持ったリポーターが、間抜け面で固まっているぼくににこやかに駆け寄ってくるのではないか。

いままでの野球にかんするすべては盛大で悪趣味な前振りで、滑稽に踊らされるぼくの一部始終をお茶の間の笑いものにするために仕組まれた巨大な陰謀だったりするのではないか。

 

野球にはそういう怖さがある。そういうわけでぼくはずっと野球というものにまったく心を開けず、宙ぶらりんの状態でただただ恐怖心と苦手意識を募らせ続けている。助けてください。

(おわり)